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「決算!忠臣蔵」の忠臣蔵とは何なのか?わかりやすくまとめてみた!

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「決算!忠臣蔵」が堤真一さん、岡村隆史さんW主演で11月22日に公開されることが発表されましたね!

よく映画や2時間ドラマなどの題材となる「忠臣蔵」。令和の時代になっても新しい映画の題材ととなっています。

しかし、そもそも「忠臣蔵」とは何なのでしょうか?

今さら聞けない「忠臣蔵」について調べてみました!そして、わかりやすくまとめてあります。

 

↓↓↓それでは「忠臣蔵ってそもそも何?わかりやすくまとめました!」です。どうぞ!

 

忠臣蔵とは何?実際の事件がモデルとなっている

忠臣蔵は「ちゅうしんぐら」と読みます。

「忠臣蔵」は江戸時代の元禄年間に起った実際の事件がモデルになっています。

 

1702年12月14日(旧暦)に赤穂浪士あこうろうしと言われる47人が、幕府の高官であった吉良上野介きら こうづけのすけを急襲し殺害した事件と、その事件にいたるまでの経緯がお芝居になったものです。

 

この一連の事件は教科書では「赤穂あこう事件」と言われています。

 

 

忠臣蔵とは何?わかりやすくいうと「主人の敵討ち」!

忠臣蔵とは何か?と一言でいうならば

「主人の敵討ち」となります。

 

現在の兵庫県南西部にあった「赤穂藩」の藩主・浅野内匠頭あさのたくみのかみが不本意な罪で切腹されられ、「赤穂藩あこうはん」も解体されてしまいます。

 

 

江戸時代の当時、お侍さんにとっては「主人」と「藩」が全て。

 

 

その「主人」は切腹されられ、所属する「藩」が解体したことで赤穂藩あこうはんの侍はみんな無所属無職の侍(浪士)となってしまいました。

主人の浅野内匠頭をおとしめた犯人は幕府の高官の吉良上野介きら こうづけのすけ

赤穂浪士たちは周到な計画をたてていました。そして報復を恐れて逃げ回る吉良を追いつめ、襲撃したのです。

 

つまり「忠臣蔵」は、赤穂浪士47人が亡き主人の敵討ちを果たす物語です。

 

 

 

なぜ「忠臣蔵」という題名になった?

赤穂あこう事件」の赤穂浪士47人は主人の敵討ちを果たしました。

その47人のリーダーは元赤穂あこう藩家老の大石内蔵助おおいし くらのすけです。

 

主人に忠誠を誓った家臣つまり「忠臣」

そして、内蔵助の「蔵」を合わせて「忠臣蔵」となった説が有名です。

 

「忠臣蔵」って何?なぜそんなに人気なのか?

1702年に起った実際の事件がモデルとなり、300年以上も繰り返し上演される「忠臣蔵」

なぜそんなに人気なのでしょう?

「忠臣蔵」最初の上演は事件の翌年!

ラジオもテレビもスマホもない江戸時代、当時のお芝居は今のテレビドラマのようなもので、印象的な事件などは格好の題材になりました。

平和だった江戸に突然起きた「赤穂浪士による幕府高官の襲撃事件」に衝撃を受けた江戸の人々は興味津々。事件の翌年にはさっそくお芝居となります。

事件の翌年1703年に近松門左衛門による「基盤太平記」という題名で、赤穂浪士が取り上げられ上演されています。お芝居は人気作品となり、ロングランとなっていきます。

日本人が好きな「義理人情」のエッセンスがいっぱい詰まっている「赤穂事件」はこうして語り継がれていくことになります。

 

1748年「仮名手本忠臣蔵」が完成!

「赤穂事件」を題材にするとお客が殺到するため、ずばり事件をそのまま描いた「仮名手本忠臣蔵かなてほん ちゅうしんぐら」が1748年に完成し、人形浄瑠璃や歌舞伎などで上演されました。

ただし、劇中では実名は使えないので関係者は似たような名前に替えてあります。

大石内蔵助→大星由良介(おおぼしゆらのすけ)

浅野内匠頭→塩治判官(えんやはんがん:赤穂藩が塩で有名だったため)

吉良上野介→高武蔵守師直(こうのむさしのかみ もろただ)

 

「仮名手本忠臣蔵」は全部上演すると丸1日がかり!

「仮名手本忠臣蔵」は事件の発端から、赤穂藩の藩士達の迷い、葛藤、その家族の姿などを心情豊かに描かれています。

なので、最初から最後までキチンと上演すると、なんと丸一日かかるんです!

一段目〜11段目までお芝居は細かく別れており、今では有名な名場面のみ上演されることが多いですね。

 

一部上演される有名なエピソードは以下の3つです。

■「四段目」…切腹を言い渡された主人・塩治判官(浅野内匠頭)が家臣に無念の思いを託し、死んで行きます。家老の大星由良介が城を明け渡し、様々な思いを胸に城を出て行く場面まで。

 

■「七段目」…敵討ちをする様子もなく連日遊び歩いている大星由良介(内蔵助)は、実は周到に計画を進めているとわかる名場面。計画の密書をうっかり遊女と師直(吉良)の手先に見られてしまい、その後始末に奔走する赤穂浪士たちの様子が描かれます。

 

■「十一段目」…討ち入りの場面。襲撃を恐れて逃げ回る師直(吉良)を追いつめ、雪の降る深夜に襲撃。主人の仇と師直(吉良)の首を落とし、それを掲げて泉岳寺へ行進していきます。

 

「忠臣蔵」の人気のポイントは何?

「忠臣蔵」人気については様々な人が解説してきましたが、まとめるとこのようなところが人気のポイントとなっているようです。

勧善懲悪

紆余曲折ありながらも、悪(吉良上野介)を無事打ち取ることに成功する、勧善懲悪のスカッと感でしょうか。

「忠臣蔵」はラストがわかっている物語であるにも関わらず、300年以上も愛されてきたというのはこの「スカッと感」なのではないでしょうか?

「水戸黄門」や「ごくせん」みたいですね…。

 

力を合わせて目的を達成する

赤穂浪士が47人揃うまでも壮大なドラマです。討ち入り組に加わる人外れる人、それぞれの心情や事情も描かれているのも特徴です。

また最後は残った47人の心が一つとなって力を合わせ、様々な困難を乗り越えて、悪(吉良)を打ち取り目標を達成したわけです。「スクールウォーズ」や「チアダン!」みたいですね!

 

散り行くものの美学

当時は敵討ちといえども襲撃は立派な犯罪であり、赤穂浪士もそれをわかっていました。

吉良を討ち取った後は大人しく処分の決定を待ち、全員切腹となっています。自分達も死ぬことがわかっていても、進んで行くその姿はやはり美しく見えてしまうのでしょうね。

映画「ターミネーター2」のラストシーンを思い出してしまいますね。

 

大きな力への反抗

「忠臣蔵」の発端は「松の廊下刃傷事件」です。

同じトラブルの当人同士なのに、立場の弱い浅野内匠頭だけが処罰を受け、幕府高官の吉良上野介は何の罪にも問われませんでした。

法が裁けないなら、自分達が動くしかない!と動き出したのが赤穂浪士だったわけです。当時から世論は赤穂浪士に味方していたようですから、今も昔もこのあたりの事情は変わっていないのですね。

 

敵討ち(自己犠牲)

誰かの為に命をかけるという姿はいつも時代も感動を呼ぶものですね。親のため、子どものため、恋人のため…、江戸時代では主人が全ての侍の世の中で、無念の内に亡くなった主人を思って行動した赤穂浪士たちに同情する人も多かったことでしょう。

 

おまけ:「四谷怪談」は「忠臣蔵」のスピンオフ!

ちなみに”うらめしや〜”のお岩さんで知られる「東海道四谷怪談」は、実は「忠臣蔵」のスピンオフ作品。

お岩さんを薬で醜い姿にして殺すDV夫の伊右衛門は元赤穂藩の侍という設定です。

 

赤穂藩解体により無職になりお金に困った伊右衛門は、病弱なお岩を捨て、子どもやお岩の両親すら殺して、若い金持ちの女に走ります。そこからお岩さんの復讐が始まる…という怪談です。

 

赤穂浪士の中で命をかけて討ち入りした人はほんのわずかで、他の人達は大変な生活を強いられていたというのがよくわかります。

つまり「四谷怪談」と「仮名手本忠臣蔵」は同じ時間軸で作られた作品ということになります。

 

「忠臣蔵」の赤穂浪士47人のその後は?

1702年12月14日深夜(旧暦)に吉良上野介の首を討ち取った赤穂浪士は首を掲げて、主人である浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ行進します。一同は泉岳寺で焼香し、主人を弔いました。

1703年2月4日(旧暦)に処分がくだり、47人は全員切腹となりました。47人は主人と同じ泉岳寺に葬られています。また、地元赤穂の菩提寺・花岳寺にも47人のお墓があり、こちらには遺髪が埋葬されていると言われています。

 

泉岳寺と、赤穂(兵庫県)では毎年12月14日(討ち入りの日の旧暦の日付)に「赤穂義士祭」が開催され、浅野内匠頭と47人の赤穂浪士と弔う行事が行われています。

 

 

 

 

まとめ

  • 「忠臣蔵」は1702年12月14日に実際に起った「赤穂事件」がモデルとなっている。
  • 「忠臣蔵」は「忠臣」の「内蔵助」が主役の物語であることから「忠臣蔵」という題名になった。
  • 「忠臣蔵」は事件の翌年からすでにお芝居として人気になっていた。
  • 「忠臣蔵」は「赤穂浪士47人が亡き主人の敵討ちを果たす」物語である。
  • 「忠臣蔵」は今も多くの人に愛される物語となっている。

 

令和の時代になっても愛される「忠臣蔵」!新しい映画も楽しみですね!

↓↓↓「決算!忠臣蔵」の原作本です。難しい本に見えますが、あっと言う間に読めるとても面白い本でした!

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